レビュー小説「坂道の向こうへ――電動自転車と、1カ月の決断」

八月の朝は、まるで罰のようだった。

アスファルトから立ちのぼる熱気の中を、娘の手を引きながら歩く。

駅まで徒歩三十分。
その距離が、夏になると倍にも三倍にも感じられた。

「ママ、もう歩けない」

娘が立ち止まる。

小さな足が、痛いと言っている。

私はしゃがんで背中を向ける。

おんぶしたまま、汗だくで歩く。

娘の重さと、
夏の重さと、
それから名前のつけにくい疲労感を全部背負いながら。

バスに変えたのは、当然の選択だと思っていた。

家から五分のバス停。
それだけで、ずいぶん楽になるはずだった。

でも世界は、いつも思い通りにはいかない。

バスに乗り始めてしばらくすると、
娘の顔色が変わるようになった。

揺れるたびに唇が青くなる。

何度か、途中の停留所で降りた。
何度か、間に合わなかった。

「もうバスやだ……」

泣きながらそう言う娘を見て、
私は何かが腹の底で静かに固まるのを感じた。

――もう、自転車しかない。

問題は、お金だった。

電動自転車でなければ、家の前の坂は無理だ。

でも、電動は安くても十万円を超える。
我が家に、その余裕はなかった。

それでも、娘をあの顔にさせたくなかった。

調べに調べて、
たどり着いたのが「レンタル」という選択肢だった。


1カ月から借りられて、配送も回収も無料。


まずは1カ月だけ試してみることにした。


割高なのはわかっていた。

でも「合わなかったとき」のリスクを、
私はどうしても無視できなかった。

届いた日、私はひとりで乗ってみた。
娘は「ずるい」と言いながら、家の前で見ていた。

自転車に乗ること自体、何年ぶりだろう。

ハンドルを握る手が、少し強張る。
ペダルを踏み込んだ瞬間、ぐん、と体が前に出た。

驚いて、少し笑ってしまった。
ああ、これが電動なんだ。

次の一踏みは、もう怖くなかった。

軽い。

信じられないくらい、軽い。

子どもを乗せてもその感覚は変わらなかった。
坂道を、まるで平地のように上っていく。

娘が後ろで「はやーい」と笑う声がした。

その声を聞いた瞬間、正直、少し泣きそうになった。

使い始めると、生活の輪郭が変わっていった。

待ち時間がなくなった。

出発時刻を逆算する必要がなくなった。

娘が青い顔をすることもなくなった。

家を出る時間が遅くなったぶん、
朝の睡眠が少し増えた。

帰りが早くなったぶん、
夜の時間に余裕ができた。

「いろんなちょっとしたストレスがなくなった」
と誰かに話したとき、
うまく言葉にできなかったけれど、
それが体感としては一番大きかった。

元気になった、というのが正直なところだ。

デメリットがないわけではない。

雨の日は、もちろん濡れる。

子どもはカバーをつければ守れるけれど、
私は確実に濡れる。

駐輪場を探すのが
少し手間だ。

それから、バッテリー。

前の日に充電しようと思っていたのに、
翌朝ふと見ると、残りは10%。


「あ……」と声が漏れる。


行きはなんとかなる。
でも帰りはどうだろう、と頭の中で計算が始まる。

頼もしい分だけ、気を抜くと痛い目を見る。

うっかり電源を入れずに走り出したとき――
あの重さは、本当に別物だった。

ハンドルがふらつくほど重くて、
慌てて電源を入れた瞬間、
さっきまでの重さが嘘のように消えた。

こんなにも違うのか、と驚いた。

1カ月後、
私は自転車を返却しなかった。

正確に言えば、
返却する代わりに、新品を買った。

あんなに躊躇していたのに、と自分でも可笑しくなる。

でも計算してみれば、卒園までのレンタル総額と新品購入額はさほど変わらない。

それなら、卒園後も自分が乗り続ければいい。

どうせ買うなら、いいものを。

背中を押してくれたのは、あの1カ月だった。

1カ月という時間は、短いようで、十分だと思う。

毎日使ってみて、初めてわかることがある。

雨の日にどう感じるか。
坂道が本当に楽なのか。
子どもが笑うかどうか。

カタログスペックでも、
口コミでも、
わからないことが、日常の中にある。

1カ月あれば、たぶん答えは出る。
少なくとも、私は見つけられた。