投稿日: 2026年2月22日2026年2月22日レビュー小説「坂道の向こうへ――電動自転車と、1カ月の決断」 八月の朝は、まるで罰のようだった。アスファルトから立ちのぼる熱気の中を、娘の手を引きながら歩く。駅まで徒歩三十分。その距離が、夏になると倍にも三倍にも感じられた。「ママ、もう歩けない」娘が立ち止まる。小さな足が、痛いと言っている。私はしゃがんで背中を向ける。おんぶしたまま、汗だくで歩く。娘の重さと、夏の重さと、それから名前のつけにくい疲労感を全部背負いながら。 バスに変えたのは、当然の選択だと思っていた。家から五分のバス停。それだけで、ずいぶん楽になるはずだった。でも世界は、いつも思い通りにはいかない。バスに乗り始めてしばらくすると、娘の顔色が変わるようになった。揺れるたびに唇が青くなる。何度か、途中の停留所で降りた。何度か、間に合わなかった。「もうバスやだ……」泣きながらそう言う娘を見て、私は何かが腹の底で静かに固まるのを感じた。――もう、自転車しかない。 問題は、お金だった。電動自転車でなければ、家の前の坂は無理だ。でも、電動は安くても十万円を超える。我が家に、その余裕はなかった。それでも、娘をあの顔にさせたくなかった。調べに調べて、たどり着いたのが「レンタル」という選択肢だった。1カ月から借りられて、配送も回収も無料。まずは1カ月だけ試してみることにした。割高なのはわかっていた。でも「合わなかったとき」のリスクを、私はどうしても無視できなかった。 届いた日、私はひとりで乗ってみた。娘は「ずるい」と言いながら、家の前で見ていた。自転車に乗ること自体、何年ぶりだろう。ハンドルを握る手が、少し強張る。 ペダルを踏み込んだ瞬間、ぐん、と体が前に出た。驚いて、少し笑ってしまった。ああ、これが電動なんだ。次の一踏みは、もう怖くなかった。軽い。信じられないくらい、軽い。子どもを乗せてもその感覚は変わらなかった。坂道を、まるで平地のように上っていく。娘が後ろで「はやーい」と笑う声がした。その声を聞いた瞬間、正直、少し泣きそうになった。 使い始めると、生活の輪郭が変わっていった。待ち時間がなくなった。出発時刻を逆算する必要がなくなった。娘が青い顔をすることもなくなった。家を出る時間が遅くなったぶん、朝の睡眠が少し増えた。帰りが早くなったぶん、夜の時間に余裕ができた。「いろんなちょっとしたストレスがなくなった」と誰かに話したとき、うまく言葉にできなかったけれど、それが体感としては一番大きかった。元気になった、というのが正直なところだ。デメリットがないわけではない。雨の日は、もちろん濡れる。子どもはカバーをつければ守れるけれど、私は確実に濡れる。駐輪場を探すのが少し手間だ。それから、バッテリー。前の日に充電しようと思っていたのに、翌朝ふと見ると、残りは10%。「あ……」と声が漏れる。行きはなんとかなる。でも帰りはどうだろう、と頭の中で計算が始まる。頼もしい分だけ、気を抜くと痛い目を見る。うっかり電源を入れずに走り出したとき――あの重さは、本当に別物だった。ハンドルがふらつくほど重くて、慌てて電源を入れた瞬間、さっきまでの重さが嘘のように消えた。こんなにも違うのか、と驚いた。 1カ月後、私は自転車を返却しなかった。正確に言えば、返却する代わりに、新品を買った。あんなに躊躇していたのに、と自分でも可笑しくなる。でも計算してみれば、卒園までのレンタル総額と新品購入額はさほど変わらない。それなら、卒園後も自分が乗り続ければいい。どうせ買うなら、いいものを。背中を押してくれたのは、あの1カ月だった。 1カ月という時間は、短いようで、十分だと思う。毎日使ってみて、初めてわかることがある。雨の日にどう感じるか。坂道が本当に楽なのか。子どもが笑うかどうか。カタログスペックでも、口コミでも、わからないことが、日常の中にある。1カ月あれば、たぶん答えは出る。少なくとも、私は見つけられた。